曲亭馬琴 其五
家族・系譜
系譜 武家出身でありながら商人となった馬琴。
寛政10年(1798年)に長兄・興旨が死亡して兄弟のうちただひとり残された。
「滝沢家」の歴史とその再興を強く意識するようになった。
滝沢一族と自らの歴史の記録『吾仏乃記』は、文政5年(1820年)に滝沢家の家譜が書き上げられ、その後20年間にわたって書き継がれていくことになる。
家族
宗伯の友人である渡辺崋山による 兄に興旨、興春、妹にお蘭(鈴木嘉伝次室、改名して「お秀」)、お菊がいる。
妻は会田氏の娘「お百」。
子供は吉田新六(清右衛門)の室となった幸、祐、興継(宗伯)、渥美氏に嫁した鍬がいる。嫁には興継の妻みち(土岐村路)がおり、興継・みちの子には太郎、つぎ、ちさがいる。
太郎は祖父と同じ「興邦」を名乗ったが、馬琴の死の翌年、嘉永2年(1849年)に没し、滝沢家は男系では絶えた。
長女・幸に婿として清右衛門を迎えて分家とした飯田町滝沢家も男子に恵まれず、興継・みち夫妻の長女である次、興継・みち夫妻の次女幸の娘である橘(きつ)が、養女として迎えられて婿を取って家を継いでいる。
橘の子が日本画家の滝沢邦行(静雄、1888年 - 1964年)で、馬琴から見れば玄孫にあたる。
スラブ行進曲 チャイコフスキー
曲亭馬琴 其五 家族・系譜 人物(非常に几帳面で、毎日のスケジュールはほぼ同じだった。)
人物
規則正しい生活
非常に几帳面で、毎日のスケジュールはほぼ同じだった。
朝6時から8時の間に起きて洗面を済まし、仏壇に手を合わせたあと、縁側で徳川斉昭考案の体操を一通りし、朝食。
客間で茶を飲んだあと、書斎に移り、前日の日記を記したのち、執筆作業に入る。
まず、筆耕者(作家、著述家)から上がってきた前日の原稿のチェック。
一字でも気になるものがあると字引を引いて確認。
そのほかにも出版社からの校正が最低でも三校、四校とあり、執筆よりも校正に苦しめられた日々だったという。
以上、Wikipedia ▲